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シリーズコラム「見えないものに価値がある」

抱っこしていただけますか

2013-06-01

ある日、赤ちゃんを抱えた一人のお客様が、目黒雅叙園の衣装課を訪ねてきた。

「Nさんはいらっしゃいますか」。Nさんは、その女性の顔を見るなり、

「ああ」と声を上げ一年前のあの出来事を思い出した。

 

新婦さんの希望で、ウエディングドレスはマーメイドのデザインで作ることになっていた。

まさしくアニメに登場する人魚のようなスタイルの方だった。

「きっと素晴らしいドレスが出来てきますよ」と言い、縫製に取りかかった。

 ところが、である。

しばらくして新婦さんからNさんに電話が入った。

「どうしましょう!」。

聞けば、お腹の中に赤ちゃんがいることがわかったのだという。

挙式まで3ヶ月。そう、3ヶ月後には、お腹が大きくなっていてマーメイドドレスだけに

着られなくなっている可能性が高い。おそらくファスナーがしまらないだろう。

Nさんは急いで縫製工場に電話をした。しかし、もう完成間近。今から修正は効かない状況だという。

困った。本当に困った。手元に届けられたドレスを手にして考えた。

スタッフみんなでアイデアを出し合う。「よし!これで行きましょう」とお直しの作業が始まった。

ドレスの背中の真ん中部分を下まで大きくカットする。ファスナーもはずす。

そして、カットした両側に布を当てて補強し穴を開け、

ひもを交互に通して網目状になるように編み上げていく。

不自然にならないように、丁寧に丁寧に。その甲斐あって、

まるで最初からそういう注文であったかのような素晴らしい出来上がりになった。

 

「あの時のお腹の子です。抱っこしていただけますか」と言われ、「はい、喜んで」と答えた。

腕の中で赤ちゃんが笑っていた。暖かくなった。体温を感じる。まるで湯たんぽを抱いているような。

それはやがて、心の奥にまで伝わってきた。

 

「ぬくもり」。見えないものに価値がある。